07米と環境、食文化和食としての米

和食は日本の伝統的食文化

2013年12月、日本の伝統的食文化である「和食」がユネスコの無形文化遺産に登録されました。背景として、2010年にフランスの美食術(ガストロノミー)や地中海料理など食文化が無形文化遺産に登録されたことで、和食も登録をとの機運が高まったことがあげられます。東日本大震災の原発事故による風評被害からの信頼回復や、家庭における和食の衰退に歯止めをかけ、和食の良さを見直してほしいとの考えもあったといいます。

(1)和食とは

ユネスコに提出された提案書によると、登録された「和食」は単に料理を指すのではなく、「自然の尊重」を基本精神とした「食の生産から消費までの技能や知識、実践、伝統に関わる社会慣習」です。具体的には、自然の恵みを余すところなく使い、季節の移ろいを大切にし、自然のなかに存在する神を行事食でもてなし、共食することです。共食を通じて家族や地域コミュニティの絆も深まり、アイデンティティの醸成につながります。
「いただきます」「ご馳走様でした」という食前食後の挨拶や「もったいない」という精神も「和食」の文化です。

(2)和食は飯が中心

和食の基本形は、飯・汁・菜(おかず)・漬物(香の物)です。この組み合わせは平安時代末期には成立していたとされています。日本で「ご飯」といえば米の飯を指すだけでなく、「食事をする」という意味でも用いられることから、日本の食事の中心は米の飯であることがわかります。
食文化は自然環境や社会環境のなかで独自性が育まれ、発展します。和食も同様に、日本の自然環境や社会環境のなかで、さまざまな影響を受けつつ発展してきました。

自然環境が育んだ米の文化

(1)稲の伝来と水田の広がり

日本はモンスーン気候で夏に雨が多く、適度な気温と湿度に恵まれているため、イネの栽培に適しています。日本で主食となっているジャポニカ系統のイネは、中国珠江中流域が栽培化起源地とされています。中国または朝鮮半島経由で日本に伝来し、縄文時代後・晩期には北九州で栽培が始まり、弥生時代には東北地方まで拡大しました。イネには畑で栽培する陸稲と水田で栽培する水稲の2種類があり、1955(昭和30)年頃を境に陸稲はほとんど姿を消しました。
稲の伝来とともに養魚技術となれずしの文化がもたらされました。養魚とは、水田や水田に続く水路で鮒や鯉、ドジョウなどを育てることであり、なれずしとは魚を塩と加熱した穀物とともに乳酸発酵させた発酵食品で、東アジアおよび東南アジア一帯に見られます(現在では消失した地域もあります)。水田は、主食である米だけでなく、副食としての魚やイナゴなどの昆虫も育んだのです。

(2)米と年中行事

日本で栽培され消費されている米のほとんどはジャポニカ米です。品種には「うるち」と「もち」の二種類があります。
米の炊飯法としては、米の粘りを活かした炊き干し法、粘りを除去した湯とり法のほか、蒸す、炒めて煮るといった方法があります。現在、日本では炊き干し法が一般的で、おこわは蒸して調理します。また、米は小麦と異なり外皮を除去しやすいことから粒食できます。さらに、粉にして団子など餅菓子に加工したりもします。
米は日常の主食であるばかりでなく、ハレの日にも食べられています。年中行事に関わる米の行事食としては、正月の雑煮、1月7日の七草粥、中秋の名月の団子などがあります。通過儀礼の食としては食い初めや枕飯などのほか、赤飯は結婚式など祝いの席に欠かせません。
一方、米は、和食の調味料の材料としても用いられます。米を主原料とする米酢、もち米から作られる本味醂みりんのほか、米味噌には米で醸した米麹が使われています。また、日本酒や米焼酎の材料にもなり、日本酒を絞った残りかすの酒粕は、奈良漬けの漬け床として用いられます。日本酒は神事のみならず、結婚式などハレの日にも欠かせません。

社会環境が育んだ日本ならではの米の文化

(1)米の歴史的役割

歴史的に見れば、日本において米は単なる食糧ではなく国家の財政基盤でもありました。聖武天皇は、殺生肉食禁止令(675年)を発令して、稲作期間に牛や馬などの動物を殺して食べることを禁止しました。当時、稲作期間中に牛や馬などの動物を殺すと米が不作になるとの迷信があり、稲作保護の観点からこの禁止令が出されたとされています。律令国家の財政基盤は米であるだけに、稲作は国家の命運を左右するほど重要だったのです。この禁止令発令以降、近代になるまで日本において公的な場での肉食は避けられるようになり、肉に代わって魚食文化が発展しました。
江戸時代の武士の給料は米で支払われ、大名の領地の経済規模は石高で表されました。また、明治時代に税を貨幣で納めるようになるまで、税は米で納められていました。米は貨幣と同等の価値をもっていたのでした。

(2)和食の発展

和食は異文化と融合することにより発展してきました。米や大豆、野菜の多くは海外から伝来したものであり、醤油や味噌は中国に起源をもちます。箸も中国伝来の食具です。
明治時代には、近代化政策の一環として肉食を解禁し、積極的に西洋の食文化を取り入れるようになりました。明治末から大正にかけて、西洋の料理を米飯に合うよう変容させた和洋折衷料理、いわゆる洋食が生み出されました。とんかつ、コロッケ、カレーライスは当時、三大洋食と呼ばれました。これらの料理は、現在ではもはや洋食と認識されないほど、日本の食卓に定着しています。

(3)あこがれから消費減へ

日本において米の自給率が100%を達成するのは、昭和35(1960)年のことです。それまでは、一部の階層を除いて、米の飯はお盆や正月などハレの日にしか口にできない貴重なもので、農村では屑米に大根など野菜を入れたかて飯や雑穀飯が日常の食でした。それだけに、米へのあこがれは強く、人々は米には特別な力があると信じていました。産飯うぶめしや振り米というかつての習俗がこれを示しています。
しかしながら、自給率100%を達成して間もなく、米の消費量は減少し始めました。1962(昭和37)年には年間一人あたり118㎏消費していましたが、2021年には51.5㎏にまで減少しました。背景には、高度経済成長期を経て食の欧米化、多様化が進み、米以外の主食の選択肢が増えたことがあります。少子高齢化による人口減少が進んだことも米の消費量を押し下げる要因となっています。

(4)米から飯への消費変化

一方で、食品産業や外食産業の発展により、米消費から飯消費へと消費形態に変化がみられるようになりました。米を買って家で調理するのではなく、おにぎりや弁当など外部のキッチンで炊飯された飯を消費するようになったのです。
近年では気候変動にともない、夏の高温や少雨によるイネへの影響がみられるようになり、米の等級や収量にも影響を与え始めています。こうした自然環境の変化に対応すべく、高温にも耐える品種改良が進んでいます。
食生活の変化や少子高齢化など米をめぐる社会環境の変化に対しては、米粉食品や多様な業務用米の開発、外国への輸出のほか、より良い食味を求めて品種改良がなされるなどの対応がなされています。

「飯・汁・菜(おかず)・漬物」の組み合わせを基本形とする和食は、米の飯を中心とし、旬の食材を用い、多様な食材を組み合わせることで栄養バランスをとることができます。
日本の自然環境と社会環境によって育まれてきた伝統的食文化である和食は、人々の暮らしや人生とともにあり、人々の心身の健康を支えています。

女子栄養大学 栄養学部 准教授 守屋亜記子

参考文献

  • 石毛直道『日本の食文化史 旧石器時代から現代まで』岩波書店(2015)
  • 岩田三代 編『伝統食の未来』ドメス出版(2009)
  • 岩田三代 編「世界の食文化無形文化遺産」『VESTA』(101号)味の素食の文化センター(2016)
  • 奥村彪生『日本料理とは何か 和食文化の源流と展開』農村漁村文化協会(2016)
  • 熊倉 功、江原絢子『和食とは何か』(和食文化ブックレット)思文閣出版(2015)
  • 農林水産省・無形文化遺産の代表的な一覧表への記載についての提案書(農林水産省作成仮訳)(2023.11.1)
    https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/pdf/nf_wayakun.pdf(PDF:642KB)